LOGIN面会の日は、雨ではなかった。
それだけで、セレスティアは少しだけ安堵した。 もし雨だったら、ノエルは馬車の音を気にしたかもしれない。 窓を打つ雨粒の数を数えたかもしれない。 石畳に跳ねる水を見て、母の最後の夜を思い出したかもしれない。 晴れていれば大丈夫、というわけではない。 晴れていても人は傷つく。 それでも、雨ではない。 今日はそれだけでいい。 朝食の席で、ノエルはいつもより丁寧にパンを見ていた。 硬いパン。 食べるパン。 犬のパンは足元にいる。 黄色い花は、食卓の中央にある。 昨日の花より少し小さい。 ノエルが選んだ花だ。「今日は、お父さまに会う日です」 ノエルは自分でそ同じ箱、という言葉が屋敷の中に居座っていた。 誰も大声で言わない。 廊下で侍女たちが噂するわけでもない。 食堂の壁に貼られたわけでもない。 それでも、確かにいた。 朝食の席で、セレスティアが小さな木箱に視線を落としただけで、リュシアンがなぜか咳払いをする。 リュシアンが棚の前で立ち止まっただけで、セレスティアが何となく目を逸らす。 ノエルはそれを全部見ていた。 見ていたうえで、何も言わなかった。 それが逆に怖い。 五歳の沈黙ほど、大人に圧をかけるものはない。「セレスティアさま」 朝食のスープを二口飲んだあと、ノエルが言った。「はい」「伯父さま」「何だ」「今日は、同じ箱の話をしてもいい日ですか」 セレスティアは、スプーンを皿に落としかけた。 リュシアンは紅茶のカップを持ったまま、完全に止まった。 犬のパンだけが机の下で尻尾を振っている。 何も分かっていない。 その無邪気さが、今だけは少し羨ましい。「ノエル」 セレスティアはできるだけ穏やかに言った。「その話は、どういう意味で聞いているのかしら」 ノエルは真剣に考えた。「箱の置き場所です」「置き場所」「はい。セレスティアさまと伯父さまの箱です」「それぞれの箱ね」「はい。昨日、同じ箱はまだ早いって言いました」「言いましたね」「でも、別々の箱を隣に置く棚は、少し考えてもいいかもしれません」 リュシアンが低く言った。「検
噂は、翌日も届いた。 今度は手紙ではなく、花だった。 白ではない。 青でもない。 黄色でもない。 薄い薄い紫色の花束だった。 添えられていたカードには、優雅な筆跡でこうあった。 『亡きご友人が最後に貴女様を頼られたこと、心よりお悔やみ申し上げます。選ばれた方にしか分からぬお苦しみもございましょう』 セレスティアは、そのカードを読んで、しばらく黙った。 選ばれた方。 その言葉が、喉の奥に引っかかった。 望んで選ばれたわけではない。 呼んでほしいと頼んだわけでもない。 ミレイユに「最後は私を頼って」と言った覚えもない。 そもそも、ミレイユは六年前にセレスティアを捨てた側だ。 それなのに、死ぬ間際にこちらを向こうとしただけで、周囲は勝手に言葉を飾る。 選ばれた。 頼られた。 親友の絆。 美しい和解。 ふざけないでほしい。 和解などしていない。 許してもいない。 手を取り合って泣いたわけでもない。 ミレイユは死んだ。 死んだから、もう問いただせない。 その事実だけが、ずっと胸に残っている。 「花は」 背後からリュシアンの声がした。 セレスティアは振り返らずに答えた。 「処分します。いえ、記録してから処分します」 「証拠か」 「噂の流れを把握する資料にはなります」 「花束まで資料にするのか」 「花束のふりをした刃物ですから」 リュシアンは黙った。 少しして、隣へ来る。 彼は花束を見た。 薄紫の花。 香りは控えめで、品
噂は、扉を叩かない。 礼儀正しい訪問客のふりもしない。 朝露のように庭へ落ちて、靴の裏について、いつの間にか廊下へ入り込む。 その朝、公爵邸に届いたものは、裁判所からの封書ではなかった。 社交界の茶会の招待状。 慈善音楽会の案内。 季節外れの見舞い状。 どれも一見、丁寧だった。 しかし、丁寧すぎるものは、時々刃物より鋭い。 セレスティアは書斎で、それらを一通ずつ開いた。 『この度のご心痛、いかばかりかと拝察いたします。亡きレイモンド夫人が最後にお頼りになろうとしたのが貴女様であったと伺い、胸を打たれました』 『親友同士の絆とは、時に血縁よりも深いものですね』 『お嬢様の養育に関しましても、亡きご母堂のご遺志が貴女様に向けられていたこと、いま改めて社交界の注目を集めております』 『かつての婚約関係と、亡き夫人との友情、そして幼いお嬢様の後見。複雑なお立場であられますが、どうぞお体を大切に』 どれも、表向きは気遣いだった。 だが、その下に透けているものは同じだ。 面白がっている。 物語にしている。 親友に婚約者を奪われた女。 その親友が死の直前に頼ろうとした女。 残された娘を育てる女。 冷徹公爵と共に屋敷に入れた女。 彼らにとって、セレスティアもミレイユもノエルも、語りやすい駒になっていた。 セレスティアは、三通目の手紙を畳む途中で手を止めた。 指先に力が入る。 破ってはいけない。 記録として保管する必要がある。 噂の流れを読むためにも。 分かっている。 分かっているが、破りたい。 「破るなら、写しを取ってからにしろ」 リュシアンが言った。 い
反論書を提出してから二日後、裁判所から返答が届いた。 灰色の封筒だった。 最近、セレスティアは封筒の色を見るだけで、胃のあたりが少し重くなる。 白なら警戒する。 青なら息を止める。 黄色なら未来を思う。 灰色なら、裁判所だ。 灰色の封筒には、感情がない。 そこが一番厄介だった。 人の傷も、子供の箱も、大人の罪も、同じ紙の上に整列させる。 必要なことだと分かっている。 けれど、食卓とは違う場所だ。 セレスティアは封を切る前に、リュシアンを見た。 彼は腕を組んで立っている。 机との距離は、昨日より少し離れていた。「机から離れていますね」「意識している」「成長です」「ノエルに言われた」「でしょうね」「君にも言われた」「言いました」 短いやり取りをしてから、封を切った。 内容は、予想よりも悪くはなかった。 伯爵夫人側が求めた箱内文書の包括提出は、現段階では認められない。 ノエル本人の直接出廷も、当面不要。 ただし、児童の心理的保護に関する後見局専門官の意見書は正式に提出すること。 また、後見人側が申し出たアルベルト・レイモンドの追加証言については、初回審理の中で聴取する。 セレスティアは、最後の一文で手を止めた。 アルベルトが話す。 ノエルの箱ではなく。 ノエルの気持ちではなく。 父親である男が、自分の知っていること、自分が黙ったこと、自分が逃げたことを話す。 それは正しい。
ノエルの箱を、裁判の道具にする。 その申立書を読み返すたびに、セレスティアは自分の指先が冷えていくのを感じた。 怒りというものは、熱いだけではない。 本当に腹の底まで落ちると、むしろ静かになる。 紙の上の文字は丁寧だった。 被害児童の精神状態。 後見人による誘導の可能性。 箱内文書の提出。 必要な確認。 どれも、裁判所へ出す文書としては整っている。 けれど、その整った言葉の下にあるものは単純だった。 ノエルが自分で怒っているはずがない。 ノエルが自分で考えられるはずがない。 だから、箱を開けろ。 気持ちを出せ。 大人の争いの材料にしろ。 セレスティアは、ペンを握った。 強く握りすぎて、指が痛い。「ペンが折れる」 向かい側からリュシアンが言った。 彼は机の前で腕を組んでいる。 机を殴らない代わりに、机を睨んでいた。 机は無実だ。 だが、かなり不安そうに見える。 いや、机に表情はない。 ないのだが、最近セレスティアの中でも、家具への同情心が芽生えつつある。 よくない傾向かもしれない。「閣下こそ、机を睨まないでください」「睨んでいない」「今、机が遺書を書きそうな顔をしています」「机に顔はない」「顔が元からだと言う方に言われたくありません」 リュシアンは一瞬黙った。「…&hell
裁判の日取りが決まった知らせは、朝食の前に届いた。 封筒は灰色だった。 白ではない。 青でもない。 黄色でもない。 ただ、役所の棚に長く置かれていそうな、何の感情もない灰色。 それが逆に、少し怖かった。 伯爵夫人の白い花や、ミレイユの青い封筒や、黄色い未来の封筒は、色があるぶん、こちらも身構えられる。 けれど、裁判所からの封書は違う。 感情を剥がした顔で、淡々と人の罪と罰を並べる。 セレスティアはその封筒を受け取った瞬間、指先が少し冷たくなった。 リュシアンは、すでに書斎にいた。 最近、朝の報告は二人で受けることが増えている。 それが当然のようになっていることに、セレスティアは時々気づいて、時々気づかないふりをした。「裁判所からです」 家令が言った。「初回審理の日程通知と、関係者への出席要請でございます」 リュシアンの眉間が深くなる。 机が少し心配そうに見えた。 いや、机に感情はない。 けれど最近、セレスティアまでそういうことを考えるようになっている。 完全にノエルの影響だ。「顔」 セレスティアが小さく言うと、リュシアンは封書から目を離さずに答えた。「まだ読んでいない」「読まなくても出ています」「顔は元からだ」「今日は、その言い訳は三割だけ許します」「なぜ三割」「裁判所の封筒なので」「基準が分からない」「私もです」 家令は何も聞こえなかったように立っている。 この屋敷の家令は本当に







